エッセイ『うんこのようでうんこでない臭い』
北村早樹子
 午前中の二時間目、だいたい10時をまわった頃になると、どこからともなく獣の肉を焦がしたような、もしくは糞尿を燻したような臭いが、開け放たれた教室の窓から入って来る。夏になるとその臭いはいっそう濃ゆくかおる。この町はホームレスがたいへん多いのでおっさんたちの体臭がこもりこもってこんな臭いになっているんやろうなあ。高校生になってはじめてこのあたりの区域に来たので、当時はわたしもこの辺の土地の事情もあまり知らず、なんとなくそんな風に推測して暮らしていた。しかしある日、体育の授業中に、わたしと同じようにこの臭いが気になってしまった生徒が、
「なんかうんこの臭いせえへん?ていうかこの時間ぐらいなったらいっつもうんこの臭いめっちゃするでな。」
と、ぽつんとぼやいた。すると、生まれも育ちもこの周辺のとある生徒が、
「この辺な、牛ばらして残った骨集めて燃やすとこあるからな、だいたい毎日この時間なったらな、骨燃やすからな、こんな臭いするんやで」
と、すごくシンプルに平然と説明しているのを耳にした。
 わたしは中学校までは大阪の北摂地区の、わりと上品とされている片田舎で生まれ育って、高校のときに学区を越えて、大阪市内のゴッサムタウンのど真ん中にあるこの高校へ進学した。難波にも天王寺にも徒歩で行ける大都会やけれど、この町はもう町全体が常時しょんべん臭く、それはリヤカーを引いたおっさんたちが歩道のあちこちで暮らしていて、そこいらじゅうに人糞が落ちているせい。それまではせいぜい田舎の田んぼの臭いや、それに付随する肥やしの臭いぐらいしか嗅いだことがなかったけれど、さすが新鮮な人糞となると、肥やしのような可愛いうんこ臭さではない、攻撃的な刺激臭がするもんやなあなんて、それぐらいのように思っていた。しかし、臭いの正体は実はうんこではなかった。
 動物の骨は、どこでも燃やしていいわけではなくって、肉屋からかき集められて決められた場所でのみ、燃やしていいことになっているらしい。その集積所がこの近くにあって、風向きなどの関係もあってわたしの通っていた高校はわりとまっすぐに臭いが届く。でも、そういった事情のことは、先生からは勿論教えられない。あるいは知らない先生も結構いるかもしれない。地元で育った子どもたちは親から教えられることとして当然知っている様子だけれど、彼らはもう生まれたときからずっと嗅いでいる臭いなので今更くっさ~と叫ぶこともしない。とはいえ、その集積所で骨が燃やされている現場をわたし自身が目撃したわけではないので、本当のところは何の臭いであるのか、正確に突き止めれたわけではない。だけれどこんなに強烈な臭いなのに、デリカシー満点とは言い難い思春期真っ只中の高校生が殆ど誰も口にしない、口にしてはいけないような隠微な理由が、それなのだとしたらすべて納得出来る。この世界には声を大にして無邪気に叫んではいけない問題がたくさんあるんやなあと身に染みて感じた出来事やった。
 わたしの高校では美術の授業で半年ぐらいかけて太鼓を作るのが恒例で、太鼓には猫や犬の皮を張るのやけど、その皮は配られたときはまだ半透明で少し部分的に毛なんかも残ったままで、乳首や乳輪の跡なんかも残っていて、臭いも獣臭かった。しかしここでも何故、このように太鼓を作るのかなどは先生から説明はない。わたしも当時は何も知らなかった。それらが同和教育の一環だったということも、後に自らの興味関心で自発的にその辺の本を読んでいて知った。
 東京は色んな臭いに溢れているけれど、あの臭いはないなあ。夏になるとあの臭いが嗅ぎたくなってなんとなく調べていたら、ちょっと違うけどお産のときに出て来る人間の胎盤を集積して燃やしている場所がわたしの住んでいるお隣の町の荒川区にあると出てきて、近所やし散歩がてらひとりで日曜日の朝っぱら訪れてみた。
 駅でいうと、町屋駅から徒歩15分くらい。荒川区荒川8丁目に、東京でたった一か所だけ、胎盤を集積して燃やしているらしい工場がある。町屋駅で降りて、ちんちん電車の踏切を越え、京成線の高架沿いに歩いていくと、荒川自然公園という長閑な公園が出現する。そんなに巨大な公園ではないけれど、そこそこの遊具があって、子どもたちが水浴びする程度の深さのプールもあって、昆虫館なんかもあるらしい。ちいさめやけど野球場もある。日曜日の午前中なのでファミリー層で賑わっていた。特にプールはあんまり泳げないんじゃないのっていう人口密度になっていた。
 公園ゾーンを突っ切ると、スロープがあって、そこを降りるとその下はもう例のゾーン、荒川区荒川8丁目。公園が丘の上に位置している形になっているので、このスロープの上から下の町並みが見渡せるのやけど、急にバラック小屋が犇めく一帯が目に入る。丘の上と丘の下、明らかに空気感が違う。
 怖々スロープを下ると、真ん前に、日本胞衣衛生工場と大正胞衣社というふたつの工場がおなじ一角に出現する。どちらもすごく年季の入った、しかし簡易に建てられた施設に思われ、殆どバラックみたいな建物から排気ダクトが突き出ている。日曜日やから工場自体がおやすみなのか、それともわりと毎日これくらい静かなのか、動いている気配を一切感じない。廃工場にしか見えない感じ。ちなみに胞衣というのは(えな)と読んで、胎盤のこと。東京中の胎盤がここに全部集められてくるそうやけど、こんなところで密やかに燃やしていて間に合っているのであろうか? とか思ってしまう。しかも胎盤だけじゃなく、胎児と一緒に出て来る卵膜や、人工中絶や堕胎などの場合にはその胎児そのものなんかも、妊婦から出て来るものは産汚物、産わい物、とかいう呼び方で、ここにまとめて集められてくる。ここ以外では燃やしてはいけないらしい。と、そうやってこの場所が如何に稀有な場所かを思い出して自分で自分を昂ぶらせていないと、なんか見過ごしてしまいそうな普通の静かな街並みのちょっと古い工場くらいのムードしか正直感じられなかった。
 ちょっと期待が大きすぎたなあと内心がっかりモードで、周囲をなんとなく散歩した。この辺はこの特殊な工場以外にも、金属工場とか塗装工場とかがちらほら点在していて、かと思えば普通にその隣には民家がある、みたいな一帯の様子。すんごいぼろっちい家もあれば、イキったデザイナー夫婦が住んでそうなピカピカの戸建ての家もある、その格差がいやに目に付く。そしてスーパーやコンビニめいたものが全然見当たらないので、生活するには不便そうやなあとか勝手に想像。わたしははじめての土地を歩くと、ホワホワホワホワアアアンっと漫画の吹きだしのようなのが浮かんで、もしもここに自分が引っ越してきたら……妄想をすぐにはじめてしまう癖があるので、ここでもそういうのをやってみて遊んだりした。
 ふと、家々の玄関を見ていたら、なんか木の十字架みたいなものの横棒の部分(藁人形でゆう腕の部分)に二枚、白い紙切れをぶら下げてる謎の物体を掲げている玄関ばかりなのに気がつく。あっちも、こっちも、幽霊屋敷のような古い長屋も、パステルカラーのファンシーな三階建ても、どこの家も全くおんなじ物体を掲げている。なんかの儀式のようである。こんなんやってる家はじめて見た。でもこの辺の家、だいたい全部ぶら下げてる。うわっ怖い! なんやろうここ! と、わたしは急に怖くなった。白石晃士監督の映画に出てきそうな町! 遠目から見るのはおもしろいけど、いざひとりで歩いていると、真夏で白昼にも関わらず、ぞぞーっと背中が寒くなった。
 はっ帰ろう、そろそろ帰ろう、と途端にびびってしまったわたしは元来た道を辿っていると、ふわっと懐かしい臭いがしてきた。すごくほんのりとやけど、でも間違いなくあの臭い。13年ぶりくらいに臭ったけど、絶対に他にはないあの臭い。そう、うんこのようでうんこでない、牛をばらして骨燃やしたら臭うらしいあの臭いである! はあ! 懐かしい! うっとりと目を閉じ一瞬郷愁に浸りかけて、しかし、目を開くとどの家にも不思議な紙切れがくっついた木の十字架がぶら下がっている。怖い~っと速足で例の坂の上の公園まで戻ってきた。
 公園まで帰ってくると、そこは至って平和で、日曜日を謳歌している家族連れがたくさん、カラフルな水着を着せてもらった子どもたちがきゃっきゃとプールに浮かんでいる。この明るい家族たちが住んでいる家なのかと思うと、全然怖くないのに、なんやったのやろうかあの薄気味悪さは。そしてあの懐かしい臭いの正体は、牛ばらして骨燃やした臭いなのか、それとも胎盤や胎児の燃える臭いなのか、ほんまのところはわからない。せやけど、坂の上に広がっている住宅地には、あの不思議な木の十字架もないし、臭いもない。ああ、なんか、そういうことか、ここは、そういうところなのか。
 これ以上触れていはいけない何かがあるような気がして、わたしはすごすごと電車に乗った。期待していたものとはちょっと違うかったけれど、予想外の体験を出来て、これはこれで満足した。
 わくわくするけど奇妙で怖ろしい、夏休みの宿題の自由研究には持って来いの、夏のひとり遊びでした。

(2016年8月/初出:北村早樹子メルマガ「そんなに不幸が嫌かよ!」)
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