エッセイ『みなしごごっこ―『女中たち』をやって考えたこと―』
北村早樹子
 先日までわたしはひさしぶりに劇に参加しておりまして、これまでの人生でいちばん脳みそも身体も使った数か月やったんではなかろうか! と言う濃ゆい日々だったので今回はその日々を思い出しつつ、『女中たち』というお芝居と、それをやりながらわたしが考えたことを書いてみようと思います。

 C子せんせいこと千木良悠子さん(SWANNY主宰)にジャン・ジュネの『女中たち』をやろうってお声をかけてもらったのは去年の11月でした。わたしは読んだことがなかったので、ひとまず岩波文庫を買って読んでみました。正直、一回読んでも全然意味がわかりませんでした。翻訳ものの文章って日本語になっていてもちょっと読みにくいものなのですが、更に戯曲になると難しくってわたしぐらいの知能指数では読み解けない、なんか数式でも書いてあるんかなって思うぐらい、活字がつるつる滑って情景がなかなか浮かばないのです。馴染のない言葉がたくさん出て来るし、しかも同じような言い回しで繰り返すくだりがたいへん多い、要するにめっちゃんこ覚えにくい! しかもセリフ量がえげつない! この劇は殆どがハイパー長ゼリフのかけ合いによって成り立っていて、ぶっつづけでひとりで何ページも喋るのが当たり前で、登場人物は姉妹と奥様の計3人なのですが、奥様が出て来るのは途中の4場のところだけで、それ以外はずっと姉妹がふたりで喋っているのです。最初に読んだとき、えっこんなん覚えれる人おるんかな!? と思いました。
 千木良さん演じる姉のソランジュとわたし演じる妹クレール、身寄りのないこの姉妹ふたりは、金子清文さん演じる奥様の家の女中として仕えている。姉妹には家族もなく友達もいなく娯楽もないので、奥様のお留守を狙ってこっそりふたりで奥様ごっこをやるだけが楽しみで、そのごっこの結末は奥様を殺す、という内容なのですが、なかなかどっこい、ごっこ芝居の中ですら殺すところまでいけない。それで姉妹はいつも、あんたのせいよ、いやあんたのせいよ、と喧嘩のような罵り合いをして、いや、罵り合ってはいるけれど愛し合ってもいて、罵られて感じちゃって悦んじゃっていたりもするので、このふたりがやっていることは自慰行為でもある。お互いがお互いのオナニーの手伝いをさせあっているような関係でもあるのです。
 ふたりは常日頃自分たちの身分の低さを自虐的に言い合っていて、「おりものみたいな女」と自分たちを自称する。こんなおりものみたいな女は愛されるはずがないからね、っと言う。これ、なかなかすごい衝撃的なセリフではないですか!? おりものみたいな女ってどんなんよ。ちなみに、わたし自身も普段から自分のことを必要以上に貶めて声高に叫ぶ自虐芸のようなことをやってしまう傾向があり、こんな自分みたいなめんどくさい女は誰からも愛されるはずがないぜって思ってしまっています。
 『女中たち』というのは邦題ですが、原題はフランス語で『Les Bonnes』といって、この言葉は現在フランスでは差別用語で言っちゃいけない言葉になっているらしく、それぐらい女中という存在は身分が低いらしいです。お国も時代も違うので、現代の日本にのうのうと生きているわたしのような人間が簡単にシンパシーを抱いてはいけない気もするのですが、わたしは自分はとても身分が低いと思って生きています。生まれながらにして身分は決まっているものだとも思っているので、ここから先、いくら頑張ってもたぶん高いところにはいけないです。いや、頑張って高い身分に登りつめようという向上心がない。備わっていない。この向上心のなさが諸悪の根源です。そして、このような性質に育ってしまったことがわたしの身分だと思っています。
 わたしは一般的な中流家庭で育ったので社会的に差別されて苦しんだりしてきたわけではないですが、家庭内の環境が結構ハイレベルで残念でした。要するに、家庭内で身分が最低でした。そういう環境で育つと、自分は身分が低いのだ、と思わざるを得ない。こんな人間なのやから愛されなくてもしゃあない、という思考がすくすく育ってしまい、こんな大人になってしまいました。
 この『女中たち』の当時、女中はもう生まれながらに女中、一生女中で、奥様と女中の間には絶対に越えられない壁があったと言います。自分はこの暮らしの外には絶対出られないとクレールは思っているのですが、わたしもまた現代の日本において、いま現在のような身分の外には抜け出られないと思ってしまっている。これがわたしに与えられた身分だとも思っている。劇中のセリフでわたしは、
「こんな穢らわしい下等な生き物。召使なんて人間のうちには入らない」
 と自らのことを罵ったのち、 「そりゃわかっていますよ、召使だって必要だってこと! 墓堀人や汚わい屋やお巡りが必要なのと同じことですもの。それでも、こういう結構なご連中が悪臭を放つことに変わりはない」
 というのです。ちょっと日本語が難しいので解釈があってるか不安ですが、臭い部分を引き受けて生きるのがわたしの役目でしょ、って逆切れしてるのかと思って、ああこれわたしと一緒やんって気がつき、わたしはこのセリフを言うとき、なんか込み上げてくるものがすごくって本番6回中の3回はちょっと泣きそうになっていました。
 誰に逆切れしてるのかって、クレールはたぶん社会に対してとかだったと思うのですが、わたしは紛れもなく母親に逆切れしています。こんなわたしに誰がした、ってよく聞くあれですが、母親がしたんでしょ、お母さんあなたのせいよ、って面と向かっては言わないですが、わたしはずっと恨みがましく思っています。こんな歳にもなってとても恥ずかしい話なのですが、思っています。こんな風にわたしは母親のことをすごく憎んでいるのに、でも本当はたぶん好き。クレールは劇中、ひとりぼっちになって、
「いかにも奥様はご親切! 奥様はお美しい! 奥様はおやさしいお方! でも、わたくしども、恩を知らぬ女ではありません」
 とここから、奥様がこれまでにしてくれた小さな親切や思い出をひとつずつ話していくのですが、わたしはこのとき、ものすごく自分の母親との思い出をかぶせてしまっていて、これも本番中は何回か泣きそうでした。わたしは自分の母親のことを話すとき、お母さんはすごい美人で可愛い人でさ~と説明してしまうのですが、本当に母親のことをそんな風に思っているのかというと、ちょっと自分でもわからなくて、心にもないことをわざと言って自分を慰めているところがちょっとあります。このシーンは、クレールはこのセリフを奥様に向かって言うのではなく、お客さんに向かって静かに語っているのですが、その辺もわたしが母親のことを他人に話すときに近く、自分を投影してしまってどきどきでした。
 とはいえ、かたや奉公先のご主人さまで、かたや実の母親なので、また勝手が違うことを無理矢理こじつけてるやんって思われるかもしれませんが、自分の母親が継母だったらいいのになあ妄想を膨らませていたことが思春期あって、いや、恥ずかしい話今でも時々あって、もう自分を孤児やと思うことにしたらいいやん、ほんなら淋しいも糞もないから楽チンやんって、名案を思い付いたかのように考えていた時期もありました。実の母親だからこんなに母親コンプレックスでがんじがらめになってしまうんではないか! あの人は継母だから、自分は孤児だから、って思えば全部解決するやん、めっちゃ楽になるやん。まあ、そんな風に架空の妄想に浸れるのは一瞬だけで結局血のつながりは簡単には絶てないので厄介なものです。なので、最初から奥様しか知らないクレールのことがちょっと羨ましくもありました。

 だけど、こうやって演技の中で感情を入れたり出したり出来るようになったのも本当に最後の方で、わたしはよくC子せんせいに、もっと感情を入れてってダメ出しされていました。そうです、わたしは実生活でもこう見えて感情を入れることがとても苦手なのです。よく怒ってるやんか~とか、笑ってるやんか~とかって思われるかもしれませんが、あれは素直に感情を発露出来てるわけではなく、あ、今ここで怒ってる顔したらおもしろがってもらえるかな、とか、ここでアホみたいなこと言うたら笑ってもらえるかな、とか、そういう薄汚い心で感情を見せているふりをしているだけで、そういう嘘の感情芝居は演出家にはすぐに見破られる。こう思われたいからこういうふりをする、というのは感情でもなんでもない。でもわたしの日常はそういう偽の感情に満ちています。だから、瞬発的に、相手に腹が立つことを言われたからその反応を素直に返す、という感情のやりとりがすごく難しくって、でもお芝居ってそういうやりとりの連続なので、一度わたしがその感情のキャッチボールを止めてしまうと、お芝居の流れ自体が止まってしまう。事実止めてしまっていました。それでC子せんせいにはすごくやりにくいめんどくさい思いをさせてしまっていたと思います。ですが、それもだんだん鍛えられて出来るようになってきて、本番では結構、その場で相手のセリフを受けて瞬発的に湧いた怒りの感情を出す、とかも出来るようになっていた気がします。これが出来てみると、お芝居は楽しいもので、そして、もしかしたらこの練習は精神構造をシンプルにして素直さを取り戻すことには持って来いなのかもしれないって思ったりもしました。

 こんな風に、考えれば考えるほどに自分と結び付けて投影してしまうというのは、たぶん役者としてはブッブーです。全然良い役者ではないでしょう。今回ははじめてちゃんと、あてがき芝居ではない既存の戯曲の人物をやるのだし、大阪弁も封印して、わたしは北村早樹子としてではなく、クレールという女をやるんだって思っていたのに、結局は自分を映してしまっていました。だけど、この『女中たち』のクレールという女の子をやらせてもらって、わたしはまたより一層自分のコンプレックスについて考えれたし、そしてお芝居という形を借りて卑屈なみなしごの女の子のセリフを叫んでみて、何故だかちょっとだけ健やかな気持ちになれました。C子せんせい、良い経験をさせてくれてありがとうございました、という気持ちです。
 なんだか今月はめっちゃ真面目な文章で、しかもお芝居を見ておられない方からしたら、なんのことやねんって感じの内容ですみません。でもそれぐらい糞まじめにお芝居のことばかりやっていた1か月でした。見に来てくださった方、本当にありがとうございました。

(2016年7月/初出:北村早樹子メルマガ「そんなに不幸が嫌かよ!」)
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